住職法話

餓鬼

餓鬼は手足が細く、お腹が膨らんだ姿をしておりますが、実はそれこそ、自己中心で欲望がつきない人間の心そのものなのです。 自己中な人 チェックリスト作りました。

もちろん少ないことに越したことはないのですが、多くても落ち込まず自分を知るいい機会だと捉え、思い当たる項目にチェックを入れてみましょう。

餓鬼は、人の心の奥深くに潜み、置かれた状況によって見え隠れするもののようです。世界を震撼させたコロナ禍は、これでもかというほどに、人間の本質を露わにさらけ出しました。目に見えない脅威によって、どんなことが起こったのでしょう。コロナに覆われ、右往左往した日々を振り返り、仏様ならぬ、人間の弱さとか愚かさに気づく機会になればと思います。

□ 自分のことしか考えず、周りに人がいることが全く見えていない。

□ 自分のルールに合わないときは、子供のようにすぐに怒り出す。

□ 相手の事は批判するが、自分の事を指摘されることをとても嫌がる。

□ プライドが高いため、自分への指摘を悪口と捉える。

□ こんなことを言ったら相手が傷つくだろうという想像力に欠ける。

□ 自分の世界だけが大切だから視野が狭くなる。

     

三蜜

      最近、コロナウィルス感染拡大予防で三蜜という言葉を耳にします。 これは仏教用語で密教の身口意を指します。 浄土真宗では、身口意の三業(しんくいのさんごう)の意味を簡単に申し上げますと、身業=悪い行い 口業=悪い言葉 意業=悪い考えの事。 物事は何でも「原因」「結果」があります。 その原因と結果の間にあります「影響力」みたいなものが「業」原因に業(影響力)が及んで結果が生まれるわけです。 結局のところ、「行動」と「言葉」と「考え」に気を付けて善行を積み重ねていけば、必ずや他者にも良い影響力を与えてすばらしい結果や評価をえることができるという意味です。      

2020 3

      今、世界中で新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない状況です。新型でありますので、まだ専門家にもわからない点が多くあるようです。高齢者、持病のある方は特に注意が必要です。  イベントや式典は軒並みに中止・延期となり、小中高校は春休みまで休校となりました。 お寺も例外ではありません。 春期彼岸会法要・楽しみにしておりました落語会もご本山にならい中止することになりました。 無参拝ですが、いつも通りお勤めはさせていただきました。 ご安心ください。 さて、情報が飛び交う現在、インターネット上のデマ情報に端を発し、トイレットペーパーの品切れがおきました。ネット社会となり、誰でも情報を簡単に入手することができる便利な時代になりましたが、しかし、一方で根拠のない情報や憶測、悪意のある偽情報などが散乱し、それが、実社会を揺るがすようになりました。感染をめぐる風評被害も起こり始めております。こうした曖昧な情報につい飛びついてしまう原因の一つは、誰もが持つ「不安」の心である。「不安」を持つ今だからこそ、仏様のみ教えを聴聞し、世間に惑わされない真実の道を歩みたいものです。      

お彼岸

春・秋の彼岸中日は、昼夜の時間がほぼ同じで、太陽が真東から上がり、真西に沈みます。 彼岸と言う言葉は、梵語の波羅蜜多(ハーラーミタ)に由来します。 私たちが生きているこの世を此岸(しがん)といいます。  この対が彼岸で仏様の荘厳な世界、極楽浄土を指しています。  仏様を聴聞する人は、古来からこの時期に苦しみの多いこの世から解放されて、絶対自由の悟りの境地の彼岸に往生することを願い、この時期は特に日本人は、故人をしのび お墓参りをする習慣があります。  仏教は仏の教えと書きます。  仏(仏陀)は覚者、真実に目覚めた存在で、私たちはその教えを信じて、極楽浄土に往き生まれ仏に成らせてもらうのです。

2017 1.1 

阿弥陀経の中に「共命之鳥」の一節がございます。  共命之鳥は六鳥の中では唯一この世に診られない鳥といえますが、最も象徴的に仏の心を体現しています。その身体は、1つの胴体に2つの頭を持つ双頭の鳥で、2つの頭がそれぞれ別々の心を持っております。その鳥の名は、カルダとウパカルダと言う名の2つの頭の共命之鳥がいました。ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きた時には満腹で何もごちそうが食べられません。お腹は1つだから。いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました。これを自分で食べれば、同じ身体を持つカルだは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルだが眠っている間に毒の実を食べました。案の定、カルだは悶絶して死んでしまいます。しかし、当然のことながら、身体は1つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです。この鳥は今はお浄土に生まれ変わって「考え方や生き方が違っても、その命はつながっているんだよ」と私たちに呼びかけてくださっております。

2016 8.1 

「既にそのときに]   仏事の小箱より

蓮といえば、仏様のシンボルとなっているくらい、尊重されているお花です。蓮が尊ばれる理由はいくつかありますが、花と果実が同時にできることもその一つです。普通なら花が咲いて、それが散った後に果実を結びますが、蓮は花の中に、最初から果実を宿しています。 正光寺の庭にも大輪の白い蓮の花が咲いております。確かに花の中に果実が見えます。

浄土真宗は、「同時」の教えです。必ず救うという、阿弥陀様のみ心が私に届いたその時に、私が仏様にならせていただくことが、約束されるのですし、この生命終わった、その瞬間に御浄土に生まれるのです。  そして、御浄土に往生すると同時に光り輝く仏様となります。時間をかけて、やがてその内に成仏するのではありません。御浄土に往生すれば、既に智慧も慈悲も円満した仏様なのです。お盆と言えば、毎日三度、御膳をお供えし、迎え火や送り火を焚く宗派が多いですが、それはご先祖をあたかも生きている人間に対するのと同じように、おもてなしされているのではないでしょうか。一方お盆だというのに、浄土真宗ではそういうことをしませんが、それは、先立っていった人たちは、みんな御浄土にうまれ、その瞬間に最高の仏様となられているからです。仏様なのですから、人間に対するようなおもてなしはいりません。  仏様に対する最上のおもてなしは、仏法聴聞です。蓮の花のように、御浄土に生まれ、仏となる。そのことを聞かせていただくことが、浄土真宗のお盆です。

2016 2.1

「春を信じて 冬を生きている]

ひたすらなる「信」

すべての葉をおとしてしまって

冬を生きている  雪柳  やまぶき  もくれん  沙羅双樹  榎  あじさい  -----

でも よくみると  みんな  既に  芽を用意している  蕾まで用意している

固く  固く  その芽を  守り  固く  固く  その蕾を 守りながら

まだまだまだ  なかなかなか  やってこない「春」を信じて  冬を 生きている

おがみたくなるような 植物たちの  「信」 の姿                東井 義雄

2015 8.4 

戦後70年によせる平和への願い  ご門主お言葉【抜粋)

ーーーーーーーーーーあらゆる争いの根本には、自己を正当とし、反対するものを不当とする人間の自己中心的な在り方が根深くあります。  宗祖親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と人間世界の愚かさを鋭く指摘されております。私たちが互いに正義を振りかざし、主張しようとも、それはいずれも 煩悩に基づいた思いであり、阿弥陀如来の真実の働きの前では打ち崩されてゆくよりほかはないということでありましょう。  それはまた、縁によって、どのような非道な行いもしかねないという、私たち人間の愚かさに対する警告でもあります。

いかなる争いにおいても悲しみの涙を伴うことを、私たちは決して忘れてはなりません。  受けがたい人の身を受け、同じ世界に生まれ、同じ時間を生きている私たちが、お互いを認めることができず、どうしてこの上、傷つけあわねばならないのでしょうか。一つ一つの命に等しくかけられている如来の願いがあることに気づかされるとき、その願いのもとに、互いが互いを大切にし、敬い合える社会が生まれてくるのではないでしょうか。  少なくてもお念仏をいただく私たちは、地上世界のあらゆる人々が安穏のうちに生きることができる社会の実現のために、最大限の努力を惜しんではなりません。

戦後70年という歳月を、戦争の悲しみや痛みを忘れるためのものにしてはなりません。  そして戦後70年と言うこの年が、異なる価値観を互いに認め合い、共存できる社会の実現の為にあることを、世界中の人々が再認識する機会となるよう、願ってやみません。

浄土真宗本願寺派門主    大谷 光淳

2015 4.20

今回の法話は神戸刑務所の巻頭言に掲載しました物です。

先日、行きつけの喫茶店でコーヒーを飲んでいた時のことである。砂糖を何を思ってか横の灰皿に入れてしまったのである。おかしなことをするなあと自分で思いながらそのままコーヒーを飲んだ。苦かった。苦い思いをしながら、砂糖は灰皿の中だなあとぼんやり見ていた。  

自宅に戻り、アレ(砂糖を灰皿に入れたこと)は、確かに呆けていたなあと思った。  店の人はどう思っていただろうかと思った。それでも料金はちゃんと払って帰ってきた。しかしその呆けた仕草をしっかり覚えていることも不思議だ。

「呆け」の始まりはこんなものだろうか。今に呆けの仕草を覚えていることもなく、思い出すこともできなくなるだろう。

そうなれば本格的な呆けだ。近頃おかしなことをすると呆けてきたかなと思う。それでもまだ気が付くだけましか。

平素から人様に迷惑をかけて、気が付かずにいることが多いと思う。   

インドの古い書物に「知って犯す罪より、知らずに犯す罪の方が重い」と説かれている。それは、「やけ火箸をつかむようなもので、知ってつかめば傷は小さいが、知らずにつかめは傷は大きくなる」と説かれている。

普通に考えれば、知って犯す罪は重く、知らずに犯す罪は知らないのだから罪は軽いと思われるが、「知らずに犯す罪は知って犯す罪より重い」と説かれている。   喫茶店で砂糖を灰皿に入れた。知らずに入れた。  

知らずなのでテーブルの上に撒いていたかもしれない。それでも自分のしていることがわからないから平然としていた。

焼けた火箸を知らずにつかんでいるようなものだ。だから傷は大きい。知って行えば悪いことをしているのだという罪の意識がある。知らないものに罪の意識がなく、懺悔する心は全くない。だから店の人に一言の謝罪もなく帰ってきた。

それだけまた傷も大きくなっているのだ。罪は重くなってきているのだ。呆けてくれば、知らずにどれだけ罪を造る事だろう。そして、自分の犯した罪もわからずに生きているとすれば、悲しく、恐ろしく、恥ずかしいことだ。

仏法(仏の教え)に遇おう。 呆けても仏法の中に抱かれていれば、仏法の香りがする人間になれるのだ。

嶃ーーーーー自ら恥じて罪をつくらないこと

愧ーーーーー他に罪をつくらせないこと

2015 1.1 

故 高倉 健 さんが生涯よりどころとした言葉

天台宗大阿闍梨、酒井雄哉師から、高倉健さんへのお言葉です。

 

行く道は     仮令身止  (けりょうしんし)

精進にして    諸苦毒中  (しょくどくちゅう)

忍びて終わり   我行精進   (がぎょうしょうじん)

悔いなし     忍終不悔   (にんじゅふけ)


右の言葉は,私たちが普段お勤めしております、「讃仏偈」の最後の四句の言葉です。  健さん座右の詞です。

2014 10.5

浄土真宗における婦人僧侶の社会的役割(立場)と存在意義

お釈迦様の時代(2500年前)インド社会では女性の社会的立場はかなり低いものであった。女性は男に隷属して、与えられた仕事は家事と子供を産むことだけだった。  それは世界各地でも見られる現象でもある。  

しかし、お釈迦様の教団だけは例外であった。当時のインド社会の規範を持ち込まなかったのである。  

教団の中は比丘(男性の修行者)比丘尼(女性の修行者)優婆塞(うばそく)(男性の在家信者)優婆夷(うばい)(女性の在家信者)で構成されていた。   

比丘は250の戒律、比丘尼には350の戒律を設けている。この差は当時の女性の社会的地位や背景を表している。 

お釈迦様のもとには、このような時代の制約を受けながら、女性であるが故の苦悩を持ち、救いを求めた人々が多数参集したのである。  

親鸞様の時代(1173~1262年)平安末期(貴族)から鎌倉初期(武士武力)世の中の価値観が180度転換した時代である。源氏と平家の戦い、天才、飢餓、疫病など、世の中が蒼然とした時代でもあった。 

その中で親鸞様は非僧非俗の立場から、肉食妻帯をして、煩悩具足の凡夫として生きられた。( 肉食妻帯 、当時僧侶に課せられた戒律の否定 肉魚を食し、妻を持つこと)(煩悩具足 身を煩わせ心悩ます罪深い存在)

今、当寺は住職病気加療中の為、坊守(住職の妻、婦人僧侶)が法務(お参り)を執り行っている。   

住職が30年お参りしても打ち明けなかった趣旨の内容を、いとも簡単に坊守に相談していることもある。愕然とする。

しかしながら、坊守であるが故の苦労(子供の事、家庭の事、門信徒との付き合いなど)も多い。その中で坊守が常に心がけていることは、他者の話を真剣にきくことだそうだ。   相手がどんな思いで、どんな状況で言っているのかを考えることだそうだ。  そうすると相手の真意がみえてくるようだ。話すことによって、心の傷が癒え、聞くことによって相手との信頼関係が生まれる効果がある。  

近年、女性の社会参画が叫ばれて久しくありません。歴史的に見ても過去、女性が低位におかれたことは間違いない事実である。これを踏まえて男女ともに等しく生きられる世界の構築が現代人に課せられた大きな責務と言わねばならないだろう。

  

2014 7.7 

お寺とのお付き合い

先日ホームページでお世話になっております営業の方と宗派の話になりました。その方は最近、祖父を亡くされ葬儀式をされたようです。その方のご両親は普段お寺とのお付き合いもなく、家の宗派がはっきりとわからなかったようです。

それで、葬儀社さんのご紹介でお寺さんが来られ、お勤めが始まるとご親戚のかたから 「どうも、いつものお経と違う」 とご指摘をうけたそうです。あとはご想像にお任せいたします。こういうことは、わたしどものお寺でも、たまにございます。恥ずかしいことです。「あなたのお名前はなんですか?」 と聞かれ「知りません」 ということと同じです。

お寺の立場から申し上げますと、普段からお寺とお付き合いをしていただきたいものです。

月に1回、月命日の日に、お寺さんが檀家さんのお家にお伺いして、お勤めをする月忌法要、毎月が大変と思われる方は、春秋の彼岸、お盆、祥月命日の年4回。   それも大変と思われる方は年に1度の祥月命日、とお盆にはお寺さんに来ていただいて、お勤めをしたいものです。   お寺から何か発信したいと思いましても、お会いする機会がないと段々疎遠になってしまいます。   正光寺の住職は法事しかしないお家にも、年末にカレンダーをお配りしております。   お寺とのご縁を持っていただきたいからです。   あるお寺の住職は、すべての檀家さんに命日が近づくとハガキを出して、命日ぐらいはお勤めをしてくださいとお寺から発信しているようです。   誰のためのお勤めかを考えます時、亡くなられた方をご縁として、ぜひ、お手次のお寺を訪ねていただき、法縁を結んでいただきたいものです。

2014 6.3

"墓じまい”について

先日、某テレビ番組で”墓じまい”を特集しておりました。興味がありつい聞き入ってしまいました。内容は60代の奥さんがご主人を亡くし、娘さん二人は嫁がれ、主人が亡くなった今、先祖の墓守をするひとがいないということで、この先の事を不安に思われておりました。そこで、決断されたことは、お墓からお骨を取り出し墓標を撤去され、更地にしてお返しすることでした。それを ”墓じまい”というようです。  そのあと、お骨を納骨堂に収め墓苑並びに寺院等に永代供養をしていただくということでした。  私はこれをお聞きして、何かすっきりしないものを感じました。この奥さんはまだ60代生かされている間は、身内の墓守はできるかたがしていただきたいものです。嫁いだ娘に負担をかけたくないという思いからでしょうが、子供には変わりがないのですから。ご相談されたのでしょうか?(実際、嫁がれてもご両親がしてこられたように、そのあとを引き継ぎ先祖の供養をされている方もおられます。)納骨された後の事は詳しく放映されておりませんでしたが、永代供養をしていただけるから、安心するのではなく、誰のための永代供養なのかを、改めて考えたいものです。

最近このような話がございました。ご主人さんを亡くし、御葬儀からのご縁で、息子さん夫婦とお孫さんをつれて、はじめてお寺にこられました。奥さんは住職にポツリポツリと「亡くなった主人は分家で、私たちは田舎から、こちらに出てきました。その為、家にはお仏壇がなく、50年間手をあわすことがありませんでした。息子も、孫も手を合わすことを知りません。これからは、お仏壇をもとめ、手を合わす生活をしていきたいです。 とわざわざそれを言うために、離れて暮らしている息子たち家族と一緒にお寺にこられました。心温まるお話でした。皆様はどう思われますでしょうか。

2014 1.17

季節の変わり目を人生の縁として

門信徒として日頃からお寺にご縁がある方と、そうでない方では、お寺に求めることが異なっていると言われます。日頃ご縁のある方は、自信の人間としての成長や学びを願われ、そうでない方では、概して故人の鎮魂や供養、追憶を願うことが主であると言われます。人間的な成長とか、学びといっても、一般的にその内容は多種多様ですが、一言で言えば、仏法による人間的深まりの学びということに尽きるのではないかと思います。お墓参りも自分が今あるのは先祖のおかげという思いでされるのでしょう。それゆえ、そこには先祖への感謝の思いがあります。今ここにいる自分は、先祖とのはかりしれない命のつながりのなかにあることは言うまでもないことですから、自分の先祖への感謝は、そのまま限りない先祖への感謝でなければなりません。しかしながら、まったく面識のないはかりしれない先祖への感謝が、果たして自分には本当にできることなのでしょうか。こう考えたとき、そのような先祖への感謝は、すべての命を救うという無限の命の象徴である阿弥陀仏の願いによって私たちが、真実の世界に向かって歩みをはじめなければ、真実の感謝にはならないのです。感謝とは自分が行うものであることに間違いはないのですが、真実の感謝とは、大いなる阿弥陀さまに支えられた感謝であり、それゆえに、墓参りは自分が知っている限りある先祖への感謝を超えて、阿弥陀仏の大悲に「つつまれて限りなく連なる命への感謝へとつながるものです。「歎異抄」第四条によると 「一切(いっさい)の有情(うじょう)はみなもって世世生生(せせしょうじょう)の父母(ぶも)・兄弟なり。と親鸞聖人は味わっておられます。

2013 10.5

砂のたとえ

仏教の命題に「人間何のために生まれてきたの?」とある。 その後に「人生はその答えを見つけるところ」ともある。人間として生まれて一度きりの貴重な人生と命を今歩んでいる。その事に意味や悦びや感謝の気持ちを感じているだろうか。「あたりまえ」の人生が先行してはいないだろうか。 「あたりまえ」の人生にはひとつだけついて回る言葉がある。 それは不平不満だけである。閉塞感が漂う。仏典にある時、お釈迦様とお弟子の阿難尊者が北インドの大きな河原をお歩きになっていた時のことでございます。 ふと立ち止まれたお釈迦様は阿難に向かって「すまないが足元の砂をすくってみてはくれないか」と申されました。「はい、お釈迦様」と聞くが早いか足元の砂を手のひら一杯にすくいました。 「当たり前の事を聞くようだが、手のひらの砂と足元の砂とでは、一体どちらが多いであろうか」 「はい、お釈迦様、手のひらのほうがずっと少のうございます。」「よく聞いてくれよ。世の中には生きとし生けるものは多く存在するが、例えば、一生空中を飛びかうもの、一生水中で暮らすもの、一生地中や地上を徘徊するもの、大きいもの、小さいもの。しかし、この私が人間として生まれることは手の平一杯の砂粒くらいしかいないのだよ。本当に、「人間として生まれた事に感謝したいものだね」と申されました。  暫くするとまた、お釈迦様が「阿難よ、すまないが、手のひらの砂を親指の爪の上に乗せてみてはくれないだろうか」「はい、お釈迦様」大半の砂はこぼれ落ちてしまいました。 「当たり前の事を聞くようだが、手の平と親指の砂とではどちらが多いであろうか」「爪の上の砂の方がずっと少のうございます。」「あきらかに聞いてくれよ。人間として生まれたものは手の平一杯の砂粒ぐらいいるけれども、人間として生まれた事の意味を感じ、生きる悦びを知っている者は親指の砂粒ぐらいしかいないのだよ」と優しく話されました。阿難は「本当にその通りでございます」と深くうなずかれました。 お釈迦様は身近な例えをもって目覚めをうながされたようです。

2013 7.26

浄土真宗のお盆

一般に、お盆といえば、ご先祖がわが家に帰って来られる時期だとされています。 仏教の大抵の宗派では、お盆の間、家に留られるご先祖をおもてなしするために、煮炊きをしてそれを小さな器に盛ってお供えしたりしています。そんな家庭に育った方が浄土真宗の家に嫁いでこられると、そういう事をしないことに、物足りなさを感じられることが多いようです。 どうして浄土真宗では、ご先祖に対するおもてなしをしないのかと言えば、お盆の間だけ帰って来られるのがご先祖ではないと考えるからなのでしょう。 帰って来るというのなら、ご先祖は、お念仏の声とともに、いつでも帰って来られるのですから。 期間限定で、一年のうちの何日間だけ、やって来るようなご先祖じゃないわけです。 他宗のように、おもてなしのお膳や、お供え物をしないのは、こんな理由があるのですが、そうは言っても、お盆となれば、浄土真宗のお寺も、やっぱり普段よりは忙しいのです。 頼まれれば、お宅に出かけて行ってお勤めもしますし、歓喜会という、お盆の法要をお寺で行いもします。 これはどうしてかと言えば、人間というのは、「いつでも、どこでも」となってしまうと、どうしてもおろそかにしてしまうものだからです。 亡き人は、仏様なのですから、いつでもどこでも迷える私のところにやって来られますが、その値打ちを忘れてしまうのです。 だから、世間で、ご先祖が帰って来られるのだとされている期間に、改めてそのことを思いだしてみようということです。               

南無阿弥陀仏、     なまんだぶつ・・・・                   仏事の小箱 より